河後森城跡(かごもりじょうあと)は、平成9年9月11日に国の史跡指定を受けた中世の山城です。
四万十川の支流広見川、その支流の堀切川・鰯川の三つの川に囲まれた独立丘陵上にあって、最高所の本郭を中心として、山の稜線部には馬蹄形に曲輪(くるわ:平地)が展開しています。
中央を南北にとおる風呂ヶ谷をとり囲むように、本郭から西は西第二から西第十までの九つの曲輪が、東は東第二から東第四、古城から古城第四の七つの曲輪が、さらにその南には新城の曲輪群が、階段状に連なっています。
城の築城の年代は不明ですが、主に天文後期から永禄期、天正期(1500年代後半頃)にかけて機能していました。当地域は当時、伊予(現愛媛県)と土佐(現高知県)の国境地帯にあって、黒土郷河原渕領(くろつちごうかわらぶちりょう)と呼ばれていました。永禄期の城主としては、河原渕教忠(かわらぶちのりただ)の名が残っていますが、この城主は、土佐一条氏一門から養子として入っています。
長宗我部氏の四国統一への動き、また天正13年(1585年)の秀吉による四国平定を経て、当地域を含む宇和郡は、戸田氏、藤堂氏、冨田氏へと支配が移っていきます。特に藤堂高虎の時代には、河後森城の天守が板島城(現在の宇和島城)に移築されたという伝承が残っています。
慶長19年(1614年)、伊達秀宗(だてひでむね)が、宇和島藩を創立すると、付家老の桑折(こおり)氏が居城したといわれ、その後詳細は不明ながら、元和元年(1615年)の一国一城令の発布によって廃城になったと考えられます。
河後森城の発掘調査→ http://www.town.matsuno.ehime.jp/site/kagomorijou/1013.html
河後森城の整備活用→ http://www.town.matsuno.ehime.jp/site/kagomorijou/1014.html
松山自動車道三間ICから松野方面へ約15km、城の南側の風呂ヶ谷駐車場から登城
・JR予土線松丸駅下車、城の北側の永昌寺口(石碑が目印)か城の南側の風呂ヶ谷口から登城
平成30年4月6日より、続日本100名城スタンプラリーが開始されました。スタンプラリーに関する情報は以下のとおりです。
史跡河後森城跡の西第十曲輪馬屋に設置(河後森城跡内にあります)
年中無休・営業時間に制限なし
風呂ヶ谷駐車場(乗用車約10台・大型バスも駐車可能)
約15分
最寄駅JR松丸駅から約30分
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