【歴史的な背景】
 河後森城は、築城の年代は不明ですが、主に天文後期から永禄期、天正期(1500年代後半頃)にかけて機能した中世山城です。城の所在する本地域は、当時、伊予(現愛媛県)と土佐(現高知県)の国境地帯にあって、黒土郷河原渕領(くろつちごうかわらぶちりょう)と呼ばれていました。永禄期の城主としては、河原渕教忠(かわらぶちのりただ)の名が残されていますが、この城主は土佐一条氏一門からの養子として入っています。
 長宗我部氏の四国統一への動き、また天正13年(1585年)の秀吉による四国平定を経て、当地域を含む宇和郡は、戸田勝隆(とだかつたか)、藤堂高虎(とうどうたかとら)、冨田信高(とみたのぶたか)へと支配が移っています。特に藤堂高虎の頃には、河後森城の天守が板島城(現在の宇和島城)に移築されたという伝承も残っています。慶長19年(1614年)、伊達秀宗(だてひでむね)が宇和島藩を創立すると、付家老の桑折(こおり)氏が居城したと言われ、その後詳細は不明ながら、元和元年(1615年)の一国一城令の発布によって廃城になったと考えられます。

 【城の形状】
 河後森城は、四万十川の支流広見川、その支流の堀切川・鰯川の三つの川に囲まれた独立丘陵上にあって、最高所の本郭を中心として馬蹄形(ばていけい)に曲輪(くるわ:削平地)が展開しています。中央を南北に通る風呂ヶ谷を囲むように、本郭から西は西第二から西第十までの九つの曲輪が、東は東第二から東第四、古城から古城第四の七つの曲輪が、さらにその南には新城の曲輪群が連なっています。
 【登城までの交通アクセス】
★JR予土線松丸駅下車、城北側の永昌寺口(石碑あり)から登城。
★松山自動車道西予・宇和ICから宇和島方面へ約40km、城南側の風呂ヶ谷口(駐車場あり)から登城。

※パンフレット及び概要図等については、松野町教育委員会教育課までお問合せ下さい。

河後森城の概要と位置

本郭↓

西第十曲輪↑

↑新城

↓古城

広見川

堀切川

鰯川

河後森城跡